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「機能していない政党政治」
民主党という徒党の成立がそれを証明している
(『日本の論点2011』文藝春秋)

政策論の時代に二大政党制がそぐわないわけ

 「政権交代可能な二大政党制」は、これまで政党政治の理想のようにいわれてきた。それが定着していない日本政治は、あたかも「遅れている」かのごとき口ぶりであった。

 政権政党の交代については、頻度にもよろうが、政治的利権の固定化を防ぐ点で有用性を認めてもよい。だが、二大政党制のほうはどうだろう。

 日本政治の昨今の特徴は、連立政権やねじれ国会に見られるように、大政党による単独支配の困難にある。しかも、「二大」に飽きたらない人が少なからず存在し、「第三極」をめざす政党活動も活発である。二大政党制が日本政治にとって最善だと決まったわけではない

 そもそも、マニフェストがもてはやされる「政策論争」の時代と、二大政党制はそぐわない。政策論争は、「程度や手法の違い」をめぐる差別化に向かいやすく、イデオロギー闘争のような相容れない二項対立にはつながりにくい。事実、「経済成長」や「弱者救済」はもはや政治理念上の亀裂ではなく、どの政党も多かれ少なかれ掲げる政策になっている。争点があるとすれば、その実現可能性や充実ぶりだけなのだ。

 私は、日本政治はもう「二大政党制」への執着を捨ててもよいと思う。「二大」へのこだわりがすぎると、「なんでもござれ」の大政党を容認してしまう。「AがダメだったからB」といった理念度外視の「成果主義的政治観」も広めてしまう。これでは日本の政党政治がふらふら漂流するだけだ。

政権交代だけが目的の徒党政治に誰がしたか

 二大政党制の必要が声高に唱えられてきたのは、その背後に自民党長期政権に対する反動があったためだろう。実際、「政権交代さえできれば」という「チェンジ至上主義」は、マスメディアを含め、多くの「反自民」の人びとの心をとらえてきた。かれらは政権交代の方便として二大政党制を礼賛してきた。

 政治家の側で「二大政党による政権交代」という設計図を描き、日本政治を無理やりそれに合わせようとしてきた張本人は、小沢一郎氏だろう。事実、一九九三年にかれが自民党を飛び出してから、日本政治は「政権交代」だけを至上命題とする「徒党」の合従連衡時代に入っていく。

 七党一会派による細川政権の成立。政権奪還のための「自社さ」連立政権。新進党の誕生と分裂。政権交代論の挫折とも言える自自連立。自由党の民主党への合流。そして二〇〇九年の政権交代。「目的のためには手段を選ばない」のが政治ではあれど、一九九三年以降の政党の離合集散は、「政党政治」というよりも、政権獲得のためならば国家観もへったくれもないという「徒党政治」の状況を呈している。いうまでもなく、その大半の仕掛け人は小沢一郎氏である。

 「政党の徒党化」は、二大政党制への過渡期だったからと、笑ってすまされるものではない。政権獲得だけが価値となった「徒党」には、語るべき国家ビジョンがない。政治家たちは選挙に勝つことだけを考えるようになり、自分に投票してくれそうな有権者ばかりに目を向ける。かれらに生活の不満を尋ね、その解消こそ重要政策だと約束して支持を得ようとする。偽善的・ばらまき的な選挙戦略が、「生活重視」の名のもとに横行するようになる。

民主党には党の活動方針を示す綱領がない

 大義名分だった「政権交代」はめでたく実現したのだ。いまこそ私たちは「政党らしさ」を念頭に、各党の「量」ではなく「質」を見定めてみるべきだろう。国会では今後、議員定数是正の議論が本格化する。だが、政党のあるべき姿をよくよく考えたうえでないと、本当に二大政党制をうながす方向での選挙制度改正が望ましいのか、判断できないではないか。

 まずは政権政党に問いかけよう。民主党は胸を張って「政党らしい政党」だと自己を誇れるのか。民主政治は多数派の獲得をかけた権力闘争だから、数合わせのための多少の雑居はやむをえまい。だが、政権交代のためとはいえ、国家観や歴史観の違いにまで目をつぶるのは「政党」として為すべきことなのか。そうした姿勢に「大異を捨てて小同につく」がごとき節操のなさを感じるほうが、むしろ見識というべきではないのか。

 寄り合い所帯のためなのだろうが、この党には「綱領」がない。ホームページを見ると「基本理念」はあるが、民自合併以前の一九九八年に作られたものである。

 たしかに、綱領も基本理念も似た点はある。しかし、基本理念なら「生活者の立場を代表」とか「旧体制の打破」などと抽象的な美辞麗句を並べておけばよいが、活動指針としての綱領ではそうはいかない。「自主憲法の制定」や「米軍基地の撤廃」といった友敵を峻別する政治的価値観まで示すのが普通だからだ。だれもが共感できる「小同」を示す基本理念とちがい、同志を募る綱領を作るには他党との「大異」を「譲れないもの」として示す覚悟が要る。基本理念と綱領は質的に異なっている。

 民主党指導者にも、国民生活第一主義、友愛主義、最小不幸主義といった政治観・社会観があることは知られている。ならばそれを政治家個人のレベルに留めず、政党の土台となる綱領に明記すればよい。そして、同志を募ったり「排除の論理」を働かせたりする拠り所にすればよい。

 民主党は率先垂範すべき政権政党である。もういいかげん筋の通った「政党らしい政党」へと脱皮すべきときなのだ。党内グループについて、マスメディアにいつまでも「旧社会党系」だの「旧民社党系」だのと呼ばせているようでは、政党としての自覚を疑われても仕方ないではないか。

 国民に正直でありたいのなら、分裂してから改めて連立政権を組むのも一案だろう。だいたいにおいて、トロイカ的寡頭支配が長く、あまり民主的でないのに「民主党」を看板にしてきたのも、正すべきことなのだ。いっそのこと、「一に雇用、二に雇用」の人たちは「労働党」を、「政治主導」であれば何でもよいと考える人たちは「剛腕党」を名乗ったらいかがか。

党の国家観は憲法の論議をすればわかる

 政策重視の時代、国家観や歴史観を含む綱領などなくとも、政策論集としてのマニフェストさえしっかりしていればよい、との意見もあろう。だが、しょせんマニフェストは投票を誘導するための選挙対策文書である。あとから、あれは口約束だったのか、と落胆させられることもある。これさえあれば政党としてきちんとしている、といった類の文書ではない。

 「政党らしい政党」をめざすのならば、国家観・歴史観と向こう一〇年の活動指針を示した「綱領」をきちんと作るべきだ。それから、「支持者」や「サポーター」ではなく、「党員」を増やそうと努力すればよい。そのほうが有権者も「党員」になる覚悟で真剣に政党を評価するようになるのではないか。

 また、「政党」には、非公開でもよいから、憲法についての党内議論をしてもらいたい。国のあり方にかかわることである以上、憲法についての一家言ぐらい政治家ならば持っているはずだ。憲法のどこを擁護し、どこを充実させ、どこを手直しすればよいのか。党内で持論を披瀝しあえば、自分たちがどういう政党で、お互い仲間としてやっていけるのか、きっとはっきりするはずだ。

 日本の政党政治は、今後も「政界再編」や「大連立」といった組み替え圧力にさらされていく。ならばなおのこと、各党には数合わせのためだけの「徒党化」の道を拒絶する心構えをもってほしい。「政権交代」の次の大義名分についても、「民主党政権の打破」などといった、たんに徒党政治を助長するだけのものは、ぜったいに避けてほしい。

 「政党らしい政党」の競合と協力こそが、場当たり的な「ご都合主義政治」からの脱却の道である。二大政党制が「徒党」の育成につながり、ミニ政党の乱立が政治的雑音を増やすだけなのであれば、政党らしさをもった中規模政党がいくつかできることを願うしかない。そして、それぞれが自己の国家観を保ちながらも政策上の妥協点を模索する、あたかも外交交渉のごとき「ネゴシエーションの政党政治」が実現することを期待するほかなかろう。